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「タイムトリップ神戸70-80’s」刊行によせて

「海岸エリア」から「北野エリア」へ

■多彩な切り口に、編集プロの凄腕ぶりを実感!

「タイムトリップ神戸70-80’s」に、港町神戸の伝説のバーとその遺伝子を引き継ぐバーの記事を8ページほど書いた(一番最後に紹介しています)。

 いまはなくなった伝説のバーとして取り上げたバーは、ギルビー、ルル、コウベハイボール、サヴォイ、サンシャイン、アカデミー・バー、キングス・アームスの7店、現役バーとして、ヤナガセ、Abuはち、チャーリーブラウン、ムーンライト、バー・メインモルト、サヴォイ・オマージュ、バー・リクエストの7店、コラムに舶来酒房スモーキーの計15店である。

 伝説のバーで、私が実際に行ったことがあるのは、アカデミー・バーのみ。仕方がないので、本やネットで資料を漁りバー愛好者の証言を集めて、何とかまとめたわけだが、かなり苦労した。だがそれもこうして形になると、苦労のしがいがあったというものだ。6月30日の発売以来、好調な売れ行きを示しているそうで、関係者の一人としても嬉しい限りである。

 本書の内容は文字通り神戸が輝いていた70-80年代を貴重な資料とともに紹介したもので、私が担当したバーの他にも、当時のファッション、雑貨、ブティック、カフェ、ディスコ、ライブハウスなどを中心にまとめられている。50代以上の人には、懐かしさを感じずにページをめくることはできないであろう。

 それにしても、よくこれだけ膨大な数の写真を集められたものだと感心する。同時に、変化に富んだ切り口の鮮やかさ、飽きさせず頁をめくる楽しさに、編集プロの凄腕ぶりを改めて実感させられた。

 私が今回、バーの頁を担当したのは、先輩編集者Nさんから声をかけられたからである。Nさんとは20代の頃からの知り合いだが、仕事での関係は、私が某情報誌で、Nさんを取材させてもらったことが一度あるきりだ。だが、Nさんの生き方、柔軟な発想力、鋭敏な感性に、私は常々リスペクトしていた。そのNさんから依頼である。断われるわけがない。Nさんにとっても今回の本は死ぬほど苦労したに違いない。だが結果的にライフワークと読んでもいいほどの渾身の出来ではなかっただろうか。

■1977年を境に、北野黄金時代が始まった

 

 紙面を何度かめくって改めて感じたことがある。神戸にとって70-80年代は最も活気のあった黄金時代だったが、それは「北野」の時代であったのではないかと。昼となく、夜となく、オシャレな遊び好きは、北野へ向けて坂道を上り、ローズガーデンやリンズギャラリーで買い物をし、神戸異人館倶楽部にあったアメリカンスタイルの開放的なバー、「ザ・アティック」でドンチャン騒ぎをしたものだ。

 実は、70-80年代にわたる約20年間の中で、エポックメーキングとなる年を挙げるとすると、1977年になる。この年、神戸港のコンテナ取扱量は、世界2位に輝く。この勢いをうけて、増え続けるコンテナを捌くために、神戸沖に人工島ポートアイランドをつくり、81年には、神戸ポートピア博覧会を開催した。

 その同じ1977年は、安藤忠雄設計によるローズガーデンが誕生した年でもある。その翌年には異人館倶楽部ができ、通称、異人館通りとして知られるようになり、最先端のオシャレゾーンとして脚光を浴び始めた。

 さらに、NHKの朝の連続テレビ小説「風見鶏」が放映されたのも、実は1977年10月3日〜翌年4月1日。これを機会に異人館ブームが起きて、雑誌を片手に「アンノン族」の若い女性が異人館界隈を歩き回る姿が増えたのだった。

 つまり1977年は、コンテナ取扱量世界2位、ローズガーデンの誕生、「風見鶏」の放映の3つが偶然のように重なっている。

 コンテナ取扱量世界2位は、港湾都市・神戸の経済の底力を証明するものであり、神戸活況の原動力になった。だが皮肉なことに、人の流れは、逆に、海から山へと変わっていった。

 神戸港には巨大な大型貨物船が港内を往来していたが、それまで寄港のたびに4、5日、神戸に滞在していた外国人船員たちは、コンテナ化によって数時間しか滞在できず、外人バーや元町高架下通商店街などから彼らの姿は消えていった。こうして1977年を境に、人の流れは、海から山へ。「海岸エリア」から山手の「北野エリア」に変わっていったのだ。

 

<付録>90年代以降の神戸

 

 80年の最後の1989年、東証一部上場企業の株価は、3万8900円台の最高値をつけた。神戸のディスコもワンレンボディコンで踊り狂うバブル時代を迎えていたわけだが、90年代のバブル崩壊以降、北野だけでなく、神戸全体、いや日本全体が衰退の道をたどり、とくに神戸は1995年の阪神淡路大震災で決定的なダメージを受けたことは周知の通りである。

 余談であるが、神戸で全国制覇したものが、2つあると言われている。一つは山口組であり、もう一つはダイエーである。1972年、ダイエーは三越を抜いて小売業売上高日本一を達成した。三宮を中心に、神戸には至る所にダイエーの看板が目についたものだ。そのダイエーもバブル崩壊後の1990年代より業績が悪化。1995年の阪神淡路大震災で多くの店舗が甚大な被害を受け、さらに傷口が広がった。そして2015年、ついにイオングループの傘下となる。オシャレでも何でもなかったが、そのバイタリティーは目を見張るものがあり、神戸経済の力の象徴みたいな部分もあった。そのダイエーが今なくなったことを寂しく思う者は、私だけではないだろう。(2017.08.23)

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