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■豊岡市役所周辺は、僕たちの遊び場所だった

 小学校に通うまで大開通りにある商店の一室を間借りしていて住んでいた。近くには、豊岡市市役所、豊岡郵便局、その前には頑丈そうな銀行などが建っていた。

 この辺りは僕たちの遊び場所だった。コンクリートの平らな面を使ってメンコやコッチンをしたり、大きな建物を利用してかくれんぼをしていた。 “頑丈そうな銀行”と書いたのは、銀行の正確な名前を憶えていなかったからだ。現在は、豊岡市南庁舎別館となっているが、当時は「県農工銀行豊岡支店」だった。子供にとって馴染みのないない名称であり、また一度も内部に入ったことがないから、見慣れた建物でありながらも、親しみを感じることはなかった。近所のちょっと無愛想だが、身なりの立派な大人という感じだろうか。

 大人になってから、豊岡に帰るたびに、この銀行の前を通り、写真を撮るようになった。改めてみると全体に風格があり、アーチ型の窓がすっきりしている。 2011年5月31日付けの毎日新聞の兵庫版の写真探訪に、豊岡市役所周辺の建築群が紹介されていた。それを読んで驚いた。設計は渡辺節(1884〜1967年)と紹介されていたからだ。

 

■関西の銀行やオフィスビルを手がけた著名な建築家

 渡辺節は東京生まれだが、大阪に設計事務所を構え、関西エリアを中心に、多くの銀行やオフィスビルを手がけた有名な建築家だ。大阪の綿業会館(国の重要文化財)、大阪ビルヂィング(ダイビル本館。現在、中之島ダイビル・ウエストに外観、内部の一部が復元されている)、そして神戸の神戸証券取引所(現在は、神戸朝日ビルに一部が復元)、大阪商船神戸支店(商船三井ビルディング)などが知られている。その渡辺節が設計した建物の一つが、幼少期に遊んでいた銀行だったとは…。

 ネットで調べてみると、YouTubeの「近代化遺産シリーズ〜豊岡復興建築群〜※」に、市役所(1927年)、郵便局(1927年建築)、そしてこの県農工銀行豊岡支店(1934年建築)が紹介されていた。これを見れば、銀行の内部を見ることができる。ルネッサンススタイルのアーチ型の窓には、面格子と網ガラスがはめ込まれ、窓から入る光が美しい。外観のコーナーストーン(隅石)なども重厚さを際立たせている。

 ちなみにこの建物は国の登録文化財となっている。せっかくの文化財が、雁木によって建物の全容を遮っているのは何とも残念だ。この建物の前だけでも雁木を無くして全容を見ることができるようにしてほしい。

 

■北但大震災後、燃えにくい鉄筋コンクリート建築を促進

 私が写真を撮っていたのは、これらだけではない。市内の各所にある鉄筋コンクリート建築も私の興味を引いた。この山陰の地方都市に、なぜ鉄筋コンクリート建築が点在するのか不思議に思いながらも、なぜか懐かしく感じられ、気が向くまま写真をとっていた。

 鉄筋コンクリート建築は、1925年(大正14年)に起きた北但大震災と関係があるとは思いながらも確信が持てなかった。 建築士の中尾康彦氏(建築工房ヴェネックス代表)によれば、やはり北但大震災が影響していた。地震の発生がお昼時であり、食事の準備に火を使っていたため、火災で豊岡市街のほとんどが焼けてしまった。そこで復興時には、県や国の補助金をつけて、燃えにくい鉄筋コンクリートの住宅の建築を促進した。そして48件の鉄筋コンクリート建築がつくられた。

 但馬の建築家だけでは一度にこれだけの建物を設計できないので、神戸あたりから若手建築家が呼び寄せられて設計したようだ。だが銀行は若手建築家ではなく、数多くの銀行建築を手がけた渡辺節になったのだろう。 中尾氏は、豊岡市内に残っている鉄筋コンクリート建築を活かした新しい街並みづくりを提案しておられる。私も賛成だ。また、豊岡には木造建築においても貴重な建物が数多く存在する。こうした多くの歴史的建造物を大切にしながら新しい街並みを創造してほしいものだ。(2011.07.03)

※近代化遺産シリーズ〜豊岡復興建築群〜http://www.youtube.com/watch?v=HcdN_vqnJhk

幼少の頃、前で遊んでいた建物が渡辺節の設計だったとは!

駅通り商店街に並ぶ復興建築群

★渡辺節の代表的建築群

綿業会館(国の重要文化財)

神戸証券取引所

(神戸朝日ビルに一部復元)

大阪商船神戸支店

(商船三井ビルディング)

幸文舎

岡歯科医院

豊岡市南庁舎別館

(旧:県農工銀行豊岡支店)

豊岡市役所

豊岡郵便局

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