top of page

幻の豊岡県

5年間だけ存在した豊岡県時代。

「小」が「大」を飲み込んで今の形に!

■豊岡県は最大広域で、石高は兵庫県の3倍!

 かつて豊岡県があったことを知っていますか?豊岡県は5年間だけ日本史に登場しました。わずか半年間だけ日本の都だった清盛の福原京、16年間、アジアへの膨張の夢を膨らませた満州帝国などと比べることはできませんが、今は存在しないからこそ逆に哀惜の念や、誕生から滅亡までの歴史的経緯への興味がふつふつと湧いてくるのでした。

 兵庫県史を調べれば、第1次兵庫県、第2次兵庫県、第3次兵庫県の3つの地図が出てきます。

 第1次は、江戸から明治に移り変わる転換期で、どこを兵庫県にすべきか迷いに迷っていた迷走の時期であり、明治4年の廃藩置県よりも早く、先行県として兵庫県が規定されています。その段階では、狭いエリアと飛び地いくつかある程度で、現在の兵庫県の範囲に何と30以上の県がありました。

 そして明治4年7月14日に廃藩置県が実施されました。それからわずか4ヵ月後にさら再編され、第2次兵庫県が誕生しました。何と30以上の県が、兵庫、姫路、豊岡、名東の4県に絞り込まれました。じゃ〜ん、豊岡県の誕生であります。この地図を見ると兵庫県は豊岡県よりも狭いエリアであることに気づきます。一方の豊岡県は現在の但馬、丹後、丹波を含み、4県のうちでも一番広域。石高にしても、姫路県(後に飾磨県と名称変更)66万石に次いで豊岡県は47万石。そして名東県(阿波・淡路)44万石、兵庫県は16万石と、豊岡県の3分の1しかありません。

 だがこの豊岡県も5年後の明治9年に解体。京都府と第3次兵庫県へと組み込まれていきます。

 

■神戸港発展のために豊岡県は大兵庫県に組み込まれる

 ではなぜ、豊岡県は消滅したのでしょうか?

 第2次兵庫県の時代、兵庫県知事になった神田孝平氏は、「いまの兵庫県は狭い。開港場を抱える兵庫県の地域経営を成功させるためにはもっと広くすべきだ」と考え、盛んに広域化の運動を始めました。

 一方、再編の最高責任者である内務卿の大久保利通も、県の再編作業を進めるに際して、開港場をもつ兵庫県の基盤を強くすることを考えていました。そのために元出石藩士で、内務省地理局長の桜井勉を呼びました。 「豊岡県のうち丹波・天田郡と丹波一国は京都府に編入し、残る但馬一国、丹波二郡と飾磨、兵庫両県を合併すればよい」。その理由として、「兵庫県は南海から北海に達し天下無類の大県になる。交通も便利で人民至福」と述べたと言われています。 この桜井の進言が採用されて、豊岡県はもとより、飾磨県、名東県もすべて兵庫県に組み込まれ、現在の大兵庫が生まれたのです。

 当時は、帝国主義諸国の植民地にならないためにも、産業を興し、貿易を盛んにし、西洋諸国に追いつけ、追い越せが至上命令の時代でした。幕末に開港した神戸港をはじめ5つの港は、近代化、富国強兵のシンボルでもあったのです。その一つである神戸港発展のために、豊岡県は身を捧げた格好になったと言えましょう。まことに残念至極。しかし、いまその神戸に住んでいることを考えると、何とも複雑な心境になります。

 

■もし、今も豊岡県があったなら?

 ここからはパラレルワールドの世界です。もし第2次兵庫県時代のまま豊岡県が存続していたらどうなっていたでしょうか。私なりに想像してみましょう。

 一つ確実に言えることは、「豊岡県立大学」ができていたはずです。これは大きなポイントです。但馬には大学がないため、大学進学希望者は、誰もが例外なく地元を離れざるを得ません。もし地元に大学があれば、優秀な学生たちが進学し、大学のカリキュラムも、但馬学、日本海学、地域観光学、産業振興学など地元密着型の科目が編成され、但馬の発展にかかわる研究ができます。そして卒業生たちは、学んだことを地元の産業発展にいかし、さらに優秀な企業を設立することでしょう。

 地元に大学があり、優秀な企業があれば、ライフスタイルも変わります。都会に出て下宿する必要もなく、自宅から大学や企業に通えます。核家族化が今ほど極端に進むこともなく、もう少しバランスの取れた家族構成になっています。 豊岡県が存続していれば、知名度だって月とスッポンほどの違いが出ます。「出身地はどこ?」「豊岡市なんだけど」「どこ、それ?」といった会話は消滅し、「ああ、県庁所在地の豊岡か。いいところらしいね」となります。

 荒唐無稽に聞こえるかも知れませんが、決してあり得ない話ではなかったのです。地図を見ると、日本海側には太平洋と接することなく独自の県が存在しています。神戸港最優先主義が主張されなければ、豊岡県が存在し続ける可能性は十分あったのです。いずれにしても過去の話ですが、5年間の豊岡県時代があったという事実だけでも知っておいてほしいものです。(2011.10.17)

(参考文献)「兵庫全史(上)」(神戸新聞総合出版センター)

bottom of page