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ハリマオ伝説

昭和の時代が次第に遠くなりつつある中、「ハリマオ」と聞いても、「何、それ?」と首を傾げる若者が大半だろう。だが、私にとって、ハリマオは、少年時代、最も熱狂的に見つめたTV番組『怪傑ハリマオ』の主人公だった。なぜハリマオにワクワクしたのか。そして大人になってから分かった様々なことを、まとめて紹介したい。

 

 

 

 

 

 毎週火曜日、午後7時30分から、お目当ての番組は始まった。三橋美智也が甲高い声で歌う主題歌とともに、当時小学3年生だった僕たちはワクワクしながらテレビのブラウン管に食い入るように見続けた。『快ハリマオ』。黒いサングラスに白いターバン、そして首にはマフラーという主人公の衣装といい、エキゾチックな東南アジアを背景にした舞台設定といい、戦時中らしき時代設定といい、すべてが斬新だった。

 当時、これほど多くの外国人の役者が出てきた娯楽作品はなかったと思う。
といっても、現地人はすべて日本人のエキストラたちが肌の色を茶褐色に塗ったことが明白であった。謎の中国人も明らかに日本人であった。たどん小僧だって、現地人の少年の設定だが、日本人まるわかりだし、少年太郎だって、少年のくせに、拳銃をぶらさげている。いまならすぐに逮捕されるだろう。

 


 東南アジアを舞台に、欧米列強の植民地主義のもとで苦しむ現地の人たちの抑圧からの解放を背景にした活劇映画だった。放映は1960年。戦後15年目で、GHQもとっくに居なくなっていたから、こうしたテレビ映画も可能となったのだろうか。
 また、ハリマオには実在のモデルがいて、彼は戦時中、軍部により利用された。時代の流れに翻弄される人間の運命の皮肉さを思わざるを得ない。
 しかし、こうしたことは、後年、大人になってから知ったことであり、当時の少年にとって、すべてが斬新で画期的な作品であった。

 中国人、インドネシア人、マレー人、白人、日本人、入り乱れての武器や財宝をめぐる争奪戦は、血わき肉踊る気分にさせてくれた。放映中の30分間、少年の心は鷲掴みにされ、東南アジアの地へと連れ去られてしまった。僕たちはハリマオになりきり、ジャングルを駆け抜け、洞窟に入り込み、断崖絶壁で闘い、怪しい酒場のカウンターに座り、秘密基地で作戦を練るのだった。

プロローグ

『快傑ハリマオ』
毎週30分間、少年たちは異国の地へ連れ去られた

■テレビドラマについて
太平洋戦争中に『マライの虎』の題名で映画にもなった伝説の英雄ハリマオをテーマにした冒険活劇。山田克郎氏の『魔の城』を原作として制作された。制作は宣弘社で5部構成の全65話。

『マライの虎』

ハリマオ伝説のもとになる作品。
戦意高揚のために製作された戦前の貴重な映像

 日本のハリマオ神話の成立は、昭和17年の新聞報道とともに、翌18年に公開されたこの映画『マライの虎』の大ヒットによるところが大きい。
 モデルの谷豊の死後、なんとマレーシアで10ヵ月間の現地ロケを行ったという。谷家が暮らしていたトレンガヌでも撮影したに違いなく、とても貴重な資料と言わざるを得ない。

 さて実際に見ていると、フィルムの状態が悪く、文字も読み辛い。ところどころでフィルムが切れて場面が飛んでいるところもある。さらに最後のシーンが、2パターン収められていた。

 またこの映画は、史実からすれば間違いだらけである。
 映画の中のハリマオは、背が高いし列車強盗もする。妹が殺されたのは拳銃であり、イギリス官憲の手配によるもの。ハリマオの死亡は、爆破しようとした発電所での銃撃戦で撃たれたから、となっている。。
 だが実際の豊は、背は低いし、列車強盗など大それたことはしなかった。妹が殺されたのは、実はもっとひどいものだったが、これは華僑暴徒によるもので、イギリス官憲の手配ではない。それに妹の死亡時は、豊は日本にいた。また、ハリマオの死は銃撃戦ではなくマラリアによるもので、最後はシンガポールの病院で息を引き取った。

 このように史実とは随分と違うが、豊が華僑暴徒の妹の虐殺をきっかけに、盗賊を始めたのは事実であり、また軍に協力して活躍し、死亡したのもまた事実である。この2点を踏まえて、あとはご都合主義的に脚色した映画といえよう。

 映像に関しては先ほど述べたように、古すぎて画面が白っぽく、リアル感が失われているのは残念だ。マレーシアの熱帯の暑さもいまひとつ見る者に伝わらない。それでも当時のトレンガヌの様子がわかり、貴重であることは間違いない。
 この映画が紛れもなく戦意高揚映画であることは、バックに流れる歌の歌詞と、最後に機関長が現地のマレー人に伝える言葉に表れている。
 歌詞は、こうだ。

 南の戦地をまたにかけ
 率いる部下は三千人
 ハリマオ ハリマオ
 マレーのハリマオ

 強欲非道のイギリスめ
 天にかわってやっつけろ
 ハリマオ ハリマオ
 マレーのハリマオ

 そして、機関長の台詞は、次の通りだ。
 「日本軍に協力して、悪鬼イギリスと闘おう。そして米英と全東亜から追い払わないといけないのだ」

 見事なまでの宣伝映画である。それでも当時の人々は、熱帯マレーシアでイギリスや華僑を相手に活躍する日本人の姿に興奮したのだった。

1943年/大映/監督:古賀聖人/主演:中田弘二、上田吉二郎

『マレーの虎 ハリマオ伝説』

アイデンティティの喪失に苦悩する若者。
実在のモデル、谷豊の実像を浮き彫りに!

■マレーシア旅行を機に、再読する

 小学生時代にテレビで熱中してみた「怪傑ハリマオ」には実在のモデルがいたことを知ってから調べだしたのは、10年以上も前のことだ。そして本書『マレーの虎 ハリマオ伝説』を読んだことで、谷豊の人物像や時代背景を知ることができた。
 その後も、戦前の大映映画『マライの虎』(1917年)を見たり、『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』(山本節著/大修館書店)を読み、舞台となったマレーシアへも旅行した。豊が少年時代暮らしていた東海岸のトレンガヌには行けなかったが、マラッカ、クアラルンプール、クアラ・スランゴル、スンカイ、キャメロンハイランド、イポー、ペナン島‥‥とマレー半島の西海岸を半分ほど縦断した。普段馴染みのないイスラム寺院を訪れ、その美しさに感心したり、街中で流れるアザーンを耳にすることができた。また、熱帯ジャングルに触れることができたのも大きな収穫だった。そして帰国後、本書をもう一度読み直す。

 

■親族、F機関などから聞きとり調査

 ハリマオのモデルである谷豊とは、どんな人物だったのか。それをさぐるために、著者の中野不二男氏は、豊の実家・福岡で実の弟、2人の妹、同級生たちから話を聞く。
 続いて、陸軍中野学校のF機関の人たち、F機関に協力して働いていた民間人たちを尋ね、彼らの証言を精力的に集める。
 そして最後に著者はクアラルンプールに飛び、豊が入っていた刑務所を探し、さらにシンガポールでマラリアの豊がかつぎ込まれた陸軍病院を突き止め、最後に、葬られた墓地を探し出した場面で、本書は終わる。
 その間、豊に影響を与えた父親の存在、トレンガヌの紹介、陸軍中野学校およびF機関の役目なども紹介されていく。

 

■なぜ、豊はハリマオになったのか?

 満州事変をきっかけにアジア各地で、日本人排斥の動きがあった。トレンガヌにおいても、暴徒化した中国人たちが、次々に日本人の店を襲い、ついには自宅の2階で寝ていた豊の妹・静子の首を切り落としたのだった。
 犯人はイギリス人の警察によって逮捕されたが、裁判で無罪となった。それを知った豊は裁判所まで抗議にいったが聞き入れず、マレー人の仲間と華僑の家を荒らし回る。やがてマレー人の子分達ができ、一緒に行動するようになった。盗みはしても殺しは一切しない。また、何度か捉えられたこともあった。このころから、「ハリマオ」の名前が広がっていたらしい。
 これを知った日本軍は、豊を日本陸軍のマレー・シンガポール侵攻作戦に利用できないかと考え、彼を作戦に引き入れたのであった。そして豊は、日本軍のために働き、31歳にマラリアに罹り、病院で死亡した。
 陸軍は、豊の遺品を日本の遺族のもとに持ち帰り引き渡す。そのときマスコミ各社が取材におとずれ、新聞紙上に「ハリマオ」の名が登場する。以後、映画、紙芝居、講談などで、日本国民一般に広く知られるようになったのだ。

 

■なぜ日本軍に協力したのか?

 豊は、なぜ日本軍に協力することになったのか? 実はこれは難しい問いであり、答えは2つの説が考えられる。
 一つは、殺された妹への復讐から日本軍に協力したという「復讐説」だ。直接殺害した中国人への憎しみはもちろん、犯人を無罪にしたイギリスに対しても復讐しようと考えていたというわけだ。
 もう一つは、「日本人回帰説」だ。もともと小さい頃にマレーシアで暮らしていた豊は、小学校時代にいったん日本に帰ったが、日本語を話すことが出来ずに嫌な想いをしていた。その段階で、アイデンティティの危機に晒されていた。自分は日本人なのかマレー人なのか。帰国子女の多くが抱える危機といえよう。
 さらに豊は、徴兵検査で身長が155センチ未満だったために、甲種、乙種(この2つが現役に適する者)には落ちて、丙種合格(国民兵役には適するものの、現役に適しないもの)となった。
 日本人の美徳と誇りを大切にする明治男である父親のもとで育った豊にとって、徴兵検査の結果は、大きなコンプレックスとなったに違いない。
 その彼に対して、F機関は「日本人として、日本軍のために働いてくれ」と口説いたのである。豊の気持ちがそちらに傾斜したことは考えられる。

 

■最後はマレー人として死す

 彼の役目とは、マレー半島上陸後の日本軍の進撃に呼応して、退却するイギリス軍の先回りをし、施設を破壊し、退路を断つ。もし遅れた場合は、追撃する日本軍のために、爆破装置を撤去することだった。
 彼は開戦の1939年12月8日から、シンガポールで息を引き取る翌年の3月17日までの99日間、日本軍のために働き、マレー半島の密林を縦断したのだった。
 マレー半島の鬱蒼たるジャングルを駆け抜けた豊は、凄い。マングローブやヤシ等の木々をかき分けで進むだけも大変だが、高温多湿なジャングには虎もいれば、マラリアに罹る恐れもある。
 実際に日本人としての義務を果たした後は、マラリアに罹って、シンガポールの陸軍病院に担ぎ込まれる。
 F機関の藤原大佐は、豊を下士官待遇にしようと考えていたし、もしもの場合は機関葬で弔おうと考えていた。だが、すでにイスラム教徒に改宗していた豊が希望したのは、仲間のマレー人に引き取られて回教寺院に葬られることだった。自らのアイデンティティの喪失に悩んでいた豊も、日本人の義務を果たした後は、マレー人として静かにやすみたかったのではないか。
 僅か31歳で生涯を終えた豊だが、マレー半島を取り巻く海の深い碧さに負けないくらい濃密な人生だった。

(中野不二男著/新潮社)

『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』

新証言によって明らかになった豊の行動。
ハリマオに、義経に似た心情を寄せる人たち

●新しい証言者による新事実を知る

 すでにハリマオを知る多くの人物が死んでいるため、『マレーの虎 ハリマオ伝説』を著した中野不二男氏の取材の後で、さらに新しい事実を発見することができるのだろうか。これが、本書『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』を読む前の大きな不安だった。
 ところが山本節氏は、私の不安を見事に解消してくれた。丹念に探せば、証言者はいるものだ。本書によって数多くの新証言が集められ、新事実を知ることができた。何よりもタイのバンプーでの生活、そして軍部に協力してタイからマレーシア国境まで谷豊と行動を共にしたチェ・カデ氏の聞き書きを読むと、まるで目の前にハリマオがいるように、一人の肉体をもった男としていきいきと躍動するのだった。
 さらに本書によって、行方不明になってから死ぬまでの谷豊の行動ルートや具体的な内容がかなりの程度、明らかになったのは、大きな収穫であった。

 

●マレーの女性に好かれた豊は、3人の女性と結婚

 『マレーの虎 ハリマオ伝説』で、実弟の谷茂樹氏が、「兄は、一生、女性ば、知らんと死んだじゃなあなかと」と発言していたが、それは間違いであったばかりでなく、何と3度も結婚していた。背は低かったが、色白でハンサム、そして負けん気が強くて気前の良い豊は、マレーの女性たちに好かれた。一時は、2度目の妻と3度目の妻と一緒に同居までしていたのだから驚く。
 また、日本軍の上陸に備えて兵站基地へと食料等を運んでいたこと。さらに発電所の爆破阻止に成功したほか、通信網の切断等にも活躍していたことを知ることが出来て、なぜか自分のことのように嬉しかった。しかも、マラリアに罹患した体でありながら、最後まで諦めずに、行動を続けたことに藤原機関の人たちにも大きな感動を与えていたことも嬉しい事実だった。

 

●ジャングルを進むことの困難と恐怖

 谷の行動ルートと、今年の私の縦断旅行とで、交錯した場所がいくつかあった。北から触れていくと、イポー、キャメロンハイランド、スンカイ、クアラルンプールなどだ。標高1800mの高地にあるキャメロンハイランドには、病の体を数人のマレー人たちに担がれて登っていったという。
 マレーシアのジャングルの底知れない深みと恐怖を、日本兵の手記が示している。少しだけ紹介しよう。

 「胸まで沈む大湿地のジャングルを切り開きながら前進する速度は、一日僅かに二千米が山々であった。胸から上は縦横に生え茂った蔦や葛に絡まれ、足腰には無数の大蛭が吸い着き、人を恐れない毒蛇は至るところに鎌首をもたげて襲いかかる。晝は風が全く通らない焦熱の地獄であり、夜は濡れた身体に急激な冷気を覚える。泥沼に深くめり込んだ両脚は、ともすれば皮膚の感覚さへ失はれさうである。ジャングルの夜は鬼気迫る静寂であった。
 疲れ切って、深い睡りに落ちようとする戦友を互に励ます声にも力がない。苦しい夜が開けると一歩、一歩、血の滲むやうな跋渉と伐開が続く。激しい空腹を感ずるが飯を炊くことは出来ない。生米を一粒づつ噛みしめながら、敵陣の背後に迫ってゆくのである(原文ママ)」(第二十五軍辻政信中佐参謀の書『シンガポールー運命の転機ー』より)

 

●動機は、アイデンティティの危機からではなかった

 『マレーの虎 ハリマオ伝説』で豊のアイデンティティに対する危機について触れたが、本書を読むとそれほど深刻に悩んでいたとは思えない。徴兵検査に落ちたからといって落ち込んだ様子もなかったし、当時の若者の気分としては、できるなら戦争なんかに行きたくなかった。そんな証言もあり、何だかほっとする。
 では、なぜ軍部に協力するようになったのか。たぶん、藤原機関が信頼する人物から見込まれ、頼まれたからであり、母親のため、そして日本のために引き受けたのだ。そして命をかけて協力した。そして死ぬときは、やはりマレー人として、イスラム教徒として死んだのである。

 

●ラマリアに罹りながら戦い抜いた豊に多くの人が感涙

 死後に「ハリマオ神話」が生まれたわけだが、単に軍による宣伝によって皆が喝采したわけでなく、豊の行動に、やはり日本人の血を騒がせる要素があったのだ。それは才能がありながら、兄に疎まれ、国内を点々としながら、非業の死を遂げた源義経に寄せる感情に似ているかもしれない。豊もまた、マラリアに罹患した体を引きずりながら、遠い熱帯のマレーシアのジャングルを縦断し闘い続け、最後に息をひきとった姿に、多くの人が感涙したであろう。

(山本節著/大修館)

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