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大連・旅順ツアー

ノスタルジック都市「大連」&

日露戦争最大の激戦地「旅順」へ

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旧大連ヤマトホテル

■2泊3日、1万9800円の激安ツアーに参加

 

 ずっと訪れたかった大連。日本が遅れて来た帝国主義国家として有史以来、最も膨張した時代。満州を支配し、満鉄が鉄道網を敷き、国策映画を盛んに制作していた時代。その満州への入口が大連である。満鉄本社があり、東洋のパリと形容されたほどの華麗な都市景観を誇っていた。清岡卓行『アカシアの大連』、なかにし礼『赤い月』などの小説の舞台でもある。終戦後の今も大連は多くの日本の若者が働く都市としてマスコミで紹介されることが多い。

 機会があればと考えていたが、何と「びっくり大連3日間」、1万9800円のツアーを見つけた。今回のツアーには旅順も含まれている。旅順は言わずと知れた日露戦争の舞台である。現地を訪れることで、二〇三高地の激戦の様子を知ることもできるだろう。

 以前、瀋陽、ハルビンも回るツアーがあったが、日程の関係で諦めた。今回は大連と旅順だけでもいいから、とりあえず友人のH氏と行くことに決めた。

■大連観光──旧日本人街、大連港、旧満鉄本社など

 

 関空から大連までわずか2時間少し。近いものだ。1日目は大連観光。

 

 まずは大連の都市計画を進めたロシア人たちの居住地区であった旧ロシア人街へ。やけに派手だなと思っていたら、2000年に復元された街で、いまは観光客向けのショップが並んでいる。一番奥に古風で瀟洒な建物が建っていた。旧大連市自然博物館だが、いまは使われていない。この建物、実はロシア統治時代はダーリニー市役所、日本統治時代は満鉄本社、ヤマトホテルなどとして使われたこともある由緒ある歴史的建物である。

 大連港はロシアが建設し、日本が整備したもの。水深が深く冬でも凍らない天然の良港だ。いいな、やっぱり港は。向かって右手には超現代的な建物が見えるが、左手には戦前の光景が広がっている。対照の妙というべきか。

 日本の満州支配の象徴として知られる旧満鉄本社へ。残念ながら中には入れない。現在は大連鉄道局だ。

 旧日本人街は市内にいくつか点在するが、かつて満鉄社員の社宅などがあった南山路へ。『アカシアの大連』の清岡卓行もこの一角に住んでいた。父は満鉄に入社し、大連港の建設を担当する最高責任者だった。彼自身は、1940年まで大連で生活し、その後5年間東京で過ごしたが、1945年3月から1948年まで大連で生活している。『アカシアの大連』を読むと、少年時代から青年時代にかけて大連で過ごした頃の情景が克明に描かれており、敗戦前後の大連の様子もよくわかる。満州奥地から引き揚げる日本人たちの苦難にくらべて、大連の拍子抜けするほど平穏な様子に驚く。

 大連市の南端にある海岸線にある老虎灘公園は、巨大な6匹の虎のモニュメントが目立つくらいだ。

 夕食後は、オプショナルで、大連夜景鑑賞に参加。最初は人民広場へ。防寒服を着た市民たちが、寒い夜空でラジカセの音楽に合わせ、2列になって盆踊りのような体操のような奇妙な踊りを踊っていた。さらにアジア最大の星海広場へ。確かに広い。イルミネーションできらびやかに飾られている。そして小高い丘にある大連観光タワーの前で、大連市街の夜景を見渡した。

 

■旧大連ヤマトホテル+旅順観光

 

 2日目は、本来は昨日行く予定だった中山広場へ。たぶん最も大連らしい風景といえば、日本時代のコロニアル建築に囲まれた中山広場だろう。ここを中心に8つの通りが放射線状に伸びている。パリの凱旋門のエトワール広場と同じスタイルである。ロシアによる都市計画をもとに、日本が当時の建築技術の粋を集めて、重厚かつ格式の高い建築物を周囲に配置した。

 ここで周辺の建築物を見回した後で、一番代表的な大連賓館(旧大連ヤマトホテル)を見学する。李香蘭が歌った宴会場や溥儀が使っていた部屋を案内される。説明を受けた後、ガイド氏が言った。「このホテルのお客さんもほとんど日本人客です。ホテルの維持のためにお金がかかります。今日はこれを特別価格で販売させてもらいます」。出してきたのは、35万円の白檀、28万円の時計。「そんな高価なもの、買う人なんておらんやろ」と思っていたが、何と両方とも売れてしまった。

 

 バスに乗って旅順観光。日露戦争時のロシア側防御要塞跡である東鶏冠山北堡塁へ。4年かけて造ったコンクリートのトーチカの規模の大きさに驚く。

 昼食後に、1905年1月5日、乃木将軍とステッセル中将が会見を行った水師営会見所。1996年に再建されたものだが、壁には当時の写真も数多く貼られていた。

 次に日露戦争最大の激戦地、二〇三高地。地名は海抜203mから付けられたようだ。砲台の横に立って旅順市街を見下ろすとその先には旅順港がよく見える。ここから大砲を放ち、旅順港に浮かぶ軍艦を沈め、領海権を握り、勝利に導いた。

 大連へ帰る途中、ホテルを改装した旧関東軍司令部(現在は博物館)、ロシア風木造校舎が目立つ旅順駅などを見る。

 

 大連に帰り、夕食後は、オプショナルで路面電車乗車と屋台散策を体験した。路面電車は日本統治時代に敷設されたもので、現在も新旧の電車が走っている。もちろん乗るのは旧型電車。座席は木製で、ぼんやりとした灯りが社内を照らす電車の窓から見える大連の夜景は怪しげに美しく映えた。中原小吃街にある屋台街を通り抜けて、スーパーマーケットに集合。これにて今回の旅は終了した。

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路面電車

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路面電車の車内

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旧ロシア人街

旧ロシア人街

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旧大連資源博物館

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大連港より

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旧日本人街

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人民広場

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大連港より

旧満鉄本社

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老虎灘公園

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星海広場

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観光タワーからの夜景

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中山広場の周囲

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旧大連ヤマトホテルのロビー

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​水師営会見所

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北堡塁

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​会見所の内部

水師営3.JPG
水師営4.JPG

​乃木大将とステッセル中将

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二〇三高地

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旧関東軍司令部

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​屋台街

二〇三高地での戦闘

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旅順駅

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​屋台街

■戦前の建築物が遺産として残っている

 

 2泊3日とはいいながら3日目は午前5時過ぎにホテルを出発したので、実質的には2日だけの余りに短い旅。だがそれでも収穫は大きかった。実際に観て体験することで分かること、実感できることは多い。

 先にも触れたが、ロシアの都市計画に乗っかって、日本が理想的な都市をつくろうとした大連は、戦争でも無傷のままであった。さらに戦後、中国政府は大連の建築物を日本統治時代の遺物として取り壊すことなく、遺産として残した。そのおかげで今も私たちは、戦前の大連の姿を見ることができる。

 

 今回のツアーでのベスト3は、以下の通り。

<1位>旧大連ヤマトホテル

 満州一のホテルと称された大連ヤマトホテルが今も存在していることが嬉しく、さすがに感慨深い。見学ができてラッキーだったが、できれば宿泊したいものだ。

<2位>二〇三高地

 日露戦争の雌雄を決する大事な局面での戦闘舞台。ここを奪うために日本は9000人もの死者を出している。ここにくれば、いかに重要な場所だったかがよく分かる。

<3位>旧型路面電車

 日本では一部の都市を除いて姿を消してしまった路面電車。だが大連で日本統治時代の旧型路面電車に乗れるとは。レトロな電車に乗っていると戦前の大連にタイムスリップする。

​(2019.01.09)

付録/大連周水子国際空港ロビーにて

 目の前で座っていた中国美人。やおら携帯電話を取り出して話し始めた。日本語と中国語のチャンポン会話だが、理解できる日本語だけが勝手に耳に飛び込んでくる。

 「アナタ、シャシントッタヨ」「ワタシ、トッテモハズカシイ」

 う〜ん、いったいどんな恥ずかしい写真を取ったのだろうか。

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