波止場通信
KOBE CULTURE AND ART
艀の風景
消えた水上生活者たち。
〜神戸港の賑わいを底辺で支えた人たちの記録〜
松本岩雄さんの写真を知ったのは、今年3月20日〜4月1日、神戸市立海洋博物館で開催された松本岩雄写真展「昭和の神戸港写真展 〜艀の詩が聞こえる〜」を見たときである。
艀(はしけ)は単に物を運搬する機能だけでなく、居住スペースを設け、生活機能を備えていた。そして艀で暮らす人たちを水上生活者と呼んでいた。艀の上で洗濯をしたり、洗濯物を干したり、子供におやつを与えたり、子守りをしたり、晴れ着を着て歩いたり、子供同士で遊んでいたり、艀の側で麻雀をしたり、宴会を開いたりと、松本さんの写真には、艀を舞台に生活している人々の様々なシーンがおさめられていた。
いい写真だった。こうした写真にはめったにお目にかかれない。 すでにこのHPの「艀の時代」で紹介したように、神戸港はかつて多くの艀で賑わっていた時代があった。だが、コンテナ船の出現と同時に、役目を終えたかのように激減した。昭和40年代と今とでは 港の風景が一変してしまった。艀溜まりの写真を見ても、若い人は、これが神戸港の写真だとは気づかない。それほどに艀と水上生活の風景は、過去のものになりつつある。だが、これはまぎれもなく神戸港が多くの船で賑わっていた時代の風景であり、日本の高度成長期を底辺で支えてきた人々の生活記録でもある。
素晴らしい写真を展覧会のときだけでなく、いつでも多くの人の目に触れられるようにしたいと願い、私は松本さんに電話をした。そして私の意図を説明すると、松本さんは快く承諾していただき、先日わざわざ、わが波止場通信社のオフィスまで貴重な写真をもってきていただいた。感謝感激である。 写真は、昭和38年〜昭和52年の16年間に撮影。以下は、写真を見ながら、松本さんの話をまとめたものである。(2012.07.21)
生活感があって、いい時代でしたね。
もっとたくさん撮っておけばよかった
神戸港の水上生活者たちの写真を撮り始めたのは、昭和38年から。読売写真クラブの先輩に勧められたのがきっかけです。最初は4人で撮りましたが、2回目からは私だけでしたよ。
厳しい生活環境の中でも、たくましく生きている生命力のようなもの、明るくて屈託のない子供たちの笑顔を見ていると、なぜか惹かれましたね。 私自身、子供の頃は貧乏のどん底で暮らしていましたから、少々のことでは驚きませんが、艀の人々の暮らしは、さらに一段と厳しいなと感じました。艀は風雨につねに晒され、居住スペースは狭く、水も外から汲んでこないといけない。仕事も大型船が着けば、時間に関係なく出かけていく。それは大変だと思いますよ。
写真を撮るときは、必ず「撮ってもいいですか?」と声をかけました。先輩からも、絶対に確認するようにと言われていましたからね。写真を撮ったら、すぐに現像して、翌週には写真を持っていってあげる。だから仲良くなれる。それでないと写真なんかとれません。艀の中の室内の写真なんかとれません。
居住スペースは、2段になっていて、上は生活の場、下は寝室でした。当時の港は、今と違って生活の匂いが満ちていた。でも不潔とかの感じはしなかった。きれいにしていましたよ。陸の方が汚かったように思いますね。艀の中に住所があることを最初に発見したときは、驚きました。子どもは普段は、親とは離れて、長田にある水上児童寮に住んでいました。そこから学校に通っていた。土日に艀にやってきて親と暮らすわけです。
この艀溜まりの写真を見て、「東南アジアのどこですか?」と言われたことがあります。「これは神戸港ですよ」というと、びっくりしていましたが、こちらの方が驚きますよ。こんな風景を知らない人が増えたんですね。日本の経済を支えてきたのは、この人たちではないかと思いますね。
艀が消えだしたのは、47、48年頃からで、50年代に激減しました。不要になった艀を燃やしていた写真もありますが、寂しい気持ちがしましたよ。 大丸百貨店で個展をしたことがあります。艀に住んでいた人もたくさん見にこられました。中には涙を流して、「写真に残るのなら、もっと家の中に入って撮ってもらったらよかった」と、泣きながら訴えていた人もいました。嬉しかったですね。 当時はフィルム代も高くて、タバコをやめてフィルムを買っていました。こうして自分が撮った写真を見ていると、もっとたくさん撮っておけばよかったと、今になって思いますね。
松本岩男さん
昭和5年生まれ。公務員生活の傍ら趣味の写真に没頭。数々の賞を受賞する。読売写真クラブの会長を務める。現在、同クラブ顧問。