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維新派「ろじ式」。

あるいは、とーやの秘密

2時間近く、シンクロし続けた役者たち

 まずは、若い役者たちに拍手をおくりたい。約1時間50分。多くの役者がほぼ舞台に出ずっぱりで、グループごとに言葉を揃えて歌い、ロボット的な動きで踊り続ける。一人だけで歌うなら、間違っても観客が気づかないだろう。だが複数人なら、間違えればたちどころに観客にも分かってしまい、その役者は舌をかみ切りたい衝動に駆られるに違いない。しかし2時間近く彼らは、見事にシンクロして歌い切った。踊り切った。どれだけ練習すれば、ここまで見事にシンクロできるのだろうか。気の遠くなるほどの練習量を思い、それだけで僕は、ご苦労さんとねぎらいたくなった。

 

ヂャンヂャン☆オペラの魅力とは?

 松本雄吉氏の舞踏の観客となって、30年近く経つと思うが、かつての日本維新派を解散して維新派を立ち上げ、ヂャンヂャン☆オペラを創始。1991年に第1回作品「少年街」を発表して以来、テレビで1回(1993年「ノスタルジア」)、現場に足を運んで見たのが1回(1999年「水街」)だけだった。申し訳ない気がしながらも足が遠のいていたのだが、今回、近場の精華小劇場で上演するというので、10年ぶりに「ろじ式」に足を運んだ。そして冒頭のような感想を抱いたわけだが、改めてじっくりとヂャンヂャン☆オペラの魅力を探ってみたい。

 

単語だけで展開するオペラは、世界の他にない(はず)

 オペラと銘打つからには、音楽、肉体、舞台の3つが三位一体となった総合芸術であることは間違いない。それぞれ極めて独創的な特色をもっており、中でも注目すべきは、やはり音楽だ。それもバックミュージックではなく、役者の歌だ。オペラであればアリア等に当たるが、維新派の場合は、極端に言えば、ほとんどが単語の繰り返しよって進められる。こんな形で展開するオペラは、世界中探しても、維新派以外には、たぶんないだろう。

 

1語文、2語文で構成。言葉自体のリズム、音楽性に着目!

 繰り返される言葉は、1語文、あるいは2語文であることがほとんどだ。例えば1語文が「さくら」なら、2語文は「さくら、咲く」となる。 人間が言葉を覚えるとき、最初に発するのは、乳児が発する「アーアー」とか「うーうー」といった喃語だと言われている。次に覚えるのが、「ママ」とか「ワンワン」とった1語文となり、そして「ワンワン、キタ」と2語文になる。 もうお分かりだろう。つまり、維新派の役者が発す言葉とは、最も原初的な言葉、言葉の卵、言葉の原色、最初の記憶なのだ。 言葉にはリズムがある。日本語自体がもつリズム、日本語が本来持っている固有のリズムや抑揚自体が、維新派が奏でる独特の音楽なのだ。とくに心地よく感じる5音、7音の言葉を聞くと、心地よく感じるのは、我々が日本人であるからに他ならない。

 

維新派的言語を、真似てみると…

 維新派の場合、例えばこうだ。実際には、こんな言葉はなかったけれど、勝手に「サクラ」を想像して作ってみた。 「サクラ」「サクラ、サクラ」「サクラ、サク」「サクラ、チル」「サクラ、サラサラ」「サクラ、サクサク」「サクラ、サンラン」「サクラ、ハンラン」「サクラモチ」「サクライロ」「サクラガイ」「サクラガミ」「サクラダイ」「サクラニク」「サクラユ」「サクラソウ」「サクラメシ」「サクラエビ」「サクラゼンセン」「サクラガリ」「オイ、オマエ、サクラヤロ!」「エッー?」 「サクラガリ」「ガリガリ」「クマガリ」「ウサギガリ」「オヤジガリ」「ショウネンガリ」「ショウジョガリ」「シュウトガリ」「メオトガリ」「ガリガリ」「ガガガ」「ガガーリン」「ガソリン」「ガイコツ」「ガイジン」「ガガガ」…

 

松本氏は、言葉の採集少年

 切りがないので、この辺でやめておく。「サクラ」という日本人に馴染み深い言葉のイメージはこれほどまでに豊穣なのだ。そして後半は「ガ」という言葉の響きからの連想イメージである。 今回は、さらに大阪の言葉の豊かさを実感できるやりとりもあった。 「忘れてん」「忘れたん?」「壊してん」「壊したん?」。「てん」と「たん」のこれまたリズミカルな響き。これを、なにわ音楽と呼ばずして何と呼ぼう。なにわの言葉遺産と呼んでいいだろう。 日本独特の言葉のリズムを大切にしながら、踊りのように組み立てていく。ことば遊びの世界。松本勇吉氏は、ことば狩りの達人であり、ことばの採集少年であり、希代のことば使い師なのだ。

 

日本維新派時代の「反近代」

 思えば、美術家出身の松本氏は、大規模な野外舞台を背景に肉体が妖しく蠢く独自の暗黒舞踏の役者兼演出家として我々の前に登場した。そこでは、台詞はほとんど語られず、鍛えられた白塗りの肉体を通して、闇をなくした平板な現代に生きる我々に、人間以前の獣のような禍々しい存在感を見せてくれた。 暗黒舞踏について一般的に語られる、蟹股、短足といった日本人の身体性へのこだわり、過剰、醜、土着・前近代、床・下界志向といった要素は、日本維新派にも見られたが、それらを大きくはみ出すど派手なスペクタクル性を備えていた。だから我々は野外劇場の舞台美術やカラクリなどを存分に楽しみながら、日本維新派の舞踏を楽しんだものだ。

 

原初のことばがもつ魅力

 この台詞のない日本維新派の時代を経て、松本雄吉氏は、人間が初めて言葉を使い始めた頃のような原初の言葉の魅力を確認し、そのリズムと音楽性にも着目して、ヂャンヂャン☆オペラを創始したのではないかと、推測する。だから間違っても、劇団四季のような日本のミュージカルをつくるつもりは初めから無かったことだけは確かである。

 

維新派が描く、少年少女の世界とは?

 さて、こうした原初の言葉を使って表現される世界とは、どんなものなのだろか? 「移民」「漂流」をテーマに活動をしてきたというが、今回の「ろじ式」は、「少年少女時代の記憶への旅」だといっていい。大阪の街の路地に生きる少年少女たちの学校生活や、街中での暮らしの記憶を、エピソード的に、オムニバス形式で描いている。とくにストーリーといったものが分からなくても、各シーンで、観る者自体も自らの遠い少年、少女の時代への還るのだった。僕自身は、この「少年少女」もまた、維新派の大切なテーマだと思っている。 さらにいえば、灰色の四角いコンクリートに囲まれてしまう街への変貌していく中で、少年少女時代に遊んだり、暮らした、懐かしい路地の記憶、小学校の記憶、街の記憶へと遡っていくことの大切さも示している。

 

空想力を武器に夢みる少年少女の栄光

 社会のルールも知らず、いまだ性も知らず、大人になる前の未分化であやうい存在であり、空想を一番の武器として無限の時間と空間を遊びながら、毎日を暮らすのが少年少女なのだ。ときには傷つき、不安や嫉妬にさいなまれることだってあるだろう。それでも、ひとたび熱中するものやことで出会いさえすれば、至福の時間が到来するに違いない。 少年少女の空想力には、制約も何もない。少年少女は、いつも自由に空想の翼を広げてどこへでも行ける。寝なくても、いつもで夢を見ることができる。いや、寝ても覚めても夢の時間を過ごしているともいえる。夢見る特権階級なのだ。 大人の想像力が、現実を踏まえて意識的に働かせる力であり、創造力を働かせるには才能も力もいる、だが空想力は、少年少女の誰もが備えているものであり、ビー玉やおはじきで遊ぶように、自在に使えるものであり、すべて魔法の国の住人なのだ。

 

「おかえり」は、観客へのメッセージ

 路地式のエピソードには、次のような名前が付けられていた(後で知ったのだが)。「標本迷路」「地図」「可笑シテタマラン」「海図」「おかえり」「錬金術」「金魚」「地球は回る、目が回る」「木製機械」「かか・とこ」。 先に紹介した「壊してん」「壊したん」といった大阪弁のやりとりは、たしか「金魚」のシーンだったと思う。そして「おかえり」というタイトルこそ、今回の「ろじ式」を象徴するものだ。夕暮れ遅くまで外て遊んでいた少年少女たちが家に帰ってきたとき、母親がかけてくれる「おかえり」。これは、観客に向けた言葉でもある。「幸せだったこども時代に、おかえり」「甦った記憶の世界へ、おかえり」。そして観客たちは、いまの服も肉体も脱ぎ捨て、会社も家庭も忘れ、自らの少年少女時代へ、そして少年時代に暮らした街へと帰っていくのだった。

 

そして「とーや」の秘密

 さて、「ろじ式」で一番多く使われていただと記憶することばが「とーや」だった。はて、「とーや」とは、何のことだろう。どこかの方言だろうか。謎だ。謎を抱えたまま、僕は家路へと急いだ。(2009.12.16)

精華小学校跡地が、イベントの整地に変身(2009年11月17日に観る)

維新派公式HPより転載

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