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画家 池口友理さん

軽やかにして多彩!見る者の心を弾ませる不思議な力

 

ギャラリーの壁面を埋め尽くす作品の数に唖然!

 暇ができると、散歩がてらに乙仲通りの「ギャラリー301」に顔を出す。私にとって最も楽しい時間である。ギャラリー301は、いわゆる現代アートと呼ばれる作品を扱っている。これらの作品と向き合うときは、一般的に近代以降の美術史の知識を総動員しながら作品と対峙し、作品の意図を推測したり、新しさを探さねばならない。現代アートには、固定概念を打ち破る発想の新しさ、モノを見る目を変える力が備わっていると考えられているからだ。いやここで現代アート論を展開していると、池口友理さんの作品に触れることができなくなるので、現代アート論は別に機会に譲るとしよう。

 

 彼女の作品との出会いは、2013年2月3日、ギャラリー301で開催されていた『絵てがみ展 Iのハガキ』でのことだった。展示された池口さんの作品は、現代アート論を忘れさせてしまうほど、無条件に見る物の心を楽しく弾ませる不思議な魅力を備えていた。壁面いっぱいに展示されていたハガキ大サイズの作品数の膨大なこと。それ以上に絵の楽しさと自由闊達さぶりに唖然としてしまった。 描かれているものは、動物、人物、乗り物、建物など身の回りにあるものばかり。中には雑誌の写真から取ったものまである。しかも、材質は、水彩、ペンシル、パステルなど何でもあり。実に気ままに描いていて、「落書き」のようにも見えるし、「ヘタウマ」のようにも見える。それでも十分、見ていて楽しく、見飽きるということがない。多過ぎて一点一点をじっくり見ることができない。私はそれから数日後、再度ギャラリーを訪れて彼女の絵を見て回ったものだ。

 展示されているハガキ大の作品は、2011年2月下旬から個展のある日まで約2年間、毎日1枚ずつ描き続けたという。これは彼女にとって、いつかは描く大作のための練習であり、ウォーミングアップであり、武者修行のようなものかも知れない。でも、それにしても毎日、作品を完成させるとは、スゴイ! といか言いようがない。​

 同じギャラリー301で、4カ月後の6月12日から『池口友理展覧会 絵』が開催された。なんと、また壁面一杯に、数えきれないほどの作品が展示されていた。今回、描かれた対象は、家、建物、町の風景がほとんどだった。それにしても、前回の個展からわずかの期間でこれだけの作品を制作するとは。呆れるばかりである。 「なぜ家だったの?」と私。「う〜ん、なんか、家っておもしろいなと思ったから」と池口さん。この短いやり取りからもわかるように、彼女が選ぶ題材は、理論的に選ぶわけではなく、直感的・感覚的に興味が湧いたものを選んでいる。しかし、家をテーマに、これだけのバリエーションを駆使して作品を描き続けることができる。これだけでもスゴイことだ。

「彼女ね、日本マクドナルドが若手クリエーターを応援するコンテストで、約1400点の応募作品の中から、見事にグランプリを受賞したんですよ」とギャラリーのオーナーの曽我さんが、マクドナルドの袋を見せてくれた。袋には、まぎれもなく彼女のタッチでビッグマックが描かれていた。池口さん本人は、「えへへ」と照れくさそうに笑っているだけだ。私はもちろん嬉しかったし、彼女の力をもってすれば、グランプリ受賞も当然かなと思った。

 

「ヘタウマ」は簡単そうに見えて、至難の技なのだ

 ところで冒頭部分で、彼女の作品を見たときに、「落書き」「ヘタウマ」といった言葉を使ったが、そのとき私は3人の画家を連想していた。 その3人とは、ウォーホールに才能を見いだされたものの、薬物中毒でわずか27歳で死亡したストリート・アートの騎手バスキア、段ボールアートで一気にポップアートシーンに躍り出た日比野克彦、そして天才ピカソである。いずれも私の大好きな画家だ。池口さんの作品を見て、これら3人の画家との類似性を強く感じたのである。 3人の共通性として「描かざる得ない衝動の強さ」が挙げられよう。段ボールでも、公共の壁でも、広告チラシの裏側の白紙でも、木の切れ端でも、描けるスペースを見つけると、描かざるを得ない衝動。I can’t stop loving you. ならぬ、I can’t stop painting.「どうにも、描かずにおれない衝動」が創作意欲を刺激し突き動かすのだ。

 「ストリート・アートとして思い浮かべる初期のバスキアやキース・ヘリングの絵は、子どもの「落書き」のようであるが、見る者に強い印象を残す。ある意味、「ヘタウマ」の一種のようにも思える。「ヘタウマ」とは、「本当は上手だが、あえて下手に描いた絵」のことであり、「ヘタ」とは違う。では「ヘタウマ」と「ヘタ」とはどこで見分けるかといえば、もう見る者の鑑賞眼とセンスに任せる他ない。 ヘタウマといえば、私が最初に思い浮かべるのは、湯村輝彦の絵であり、「ウマい」の絵よりも、強烈な個性とインパクトを感じたものだ。ヘタウマは、日本の広告業界を中心としたサブカルチャーから出てきた言葉であり、他にも、安西水丸、川村要介、スージー甘金、蛭子能収、多くのイラストレーターが活躍した。そして日々野克彦の登場によって、カルチャーとサブカルチャーの境界線も次第に曖昧になってきた。

 

 ところでイラストレーターの山藤章二氏が「ヘタウマ文化論」(岩波新書)なる著書の中で明かしていることだが、実際に「ヘタウマ」を自ら実践したそうだ。だが、どうしても、常識、理屈、美学が邪魔をして、程よく整えてしまう。それに対して、ヘタウマ派の絵は、もっとヘタで奔放だ。ノーコントロールで、アンバランスでアナーキーだ。

 そして、「ウマさを志向した人間や、ウマい技術を身につけた人間が、ヘタに見える絵を描くことは非常に難しい」と結論づける。「ヘタウマ派とは、この困難を乗り越えた人たちのことで、一朝一夕になれるものではない」、あるいは「ヘタさの自由、楽しさ、自己解放の快感を知ると、やめられないですよ」とも語っている。 山藤説に大賛成だ。ヘタウマは、簡単そうで、本当は実に難しい。そしてこんなふうに描けたら楽しいだろうな、といつも思う。

 

軽やかにして多彩。見飽きることなし!

 さて、池口さんの絵を改めて見てみよう(「海運!なんでも鑑定団」のノリですな)。まず2月の『Iのハガキ』展から。例えば、ぞうさんの絵。これ、どうみても小学生か幼稚園児が描いたようにしか見えないが、実際のところ、こんな風に大人が描くのは至難の技なのだ。電車も勢いで葉書からはみ出しているのも、小学生みたいだ。 あるいは地下鉄なんばと書いてあるのに、描かれているのは船なんだな。街灯に照らされた男の子の絵や、脚と男の組み合わせなんかは、とってもクール。あるいは、水彩の上にマジックペンで描いたライオンの力強さはどうだ。かと思えば、若冲の日本画に落書きしたようなコラージュ作品もある。

 

 次に6月の『絵』から。ヨーロッパの調和した街並から比べると、日本の街並の、何て無秩序で無個性なことよ、と嘆くのが通例だが、逆に彼女には日本の街並が面白いと映るようである。一つ一つの家や建物が個性的に楽しく描かれている。ある大きな作品の上下に34個もの小さな作品が額縁のように並べられていた。その小さな作品をよ〜く見ると、これも全部、建物。しかもここだけタッチが違っている。いずれも西洋建築物で、厚塗りの表現主義的な手法で描かれている。 駐車場には遠近法を無視した大きな雀が3羽いる。高層ビルの間の大きな道路を自動車が走っている風景に、黒いペン画が落書きのようにレイヤー状態で重なっている。不思議な作品だ。花模様の上に描かれた黒い線は、電柱と電線だ。自動販売機ばかり多く描かれた作品は、いずれ自販機業界の人が購入するに違いない。

 この家シリーズで思い出した。それはバルセロナのピカソ美術館で見た、ベラスケスの名作「ラス・メニーナス」を題材とした連作だ。ここでピカソは58通りに描いている。火山から噴出するマグマのように奔放な想像力に圧倒された記憶がある。池口友理さんもまた、希有な才能の持ち主であり、彼女の絵は、まるでハミングでもしながら描いたように軽やかで多彩であり、見る者の心をシャンパンの泡のように浮き立せる力がある。これからどんな作品を次々と魔法のように生み出すのか、楽しみでならない。(2013.09.26)

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